リバタリアン・パターナリズムとは

行動経済学
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行動経済学やナッジについての本を読んでいると必ずといって良いほど登場する「リバタリアン・パターナリズム」。しかし、これについて詳しく解説している書籍はほとんどありません。

そこで、今回は「リバタリアン・パターナリズム」とは何であるのかを見ていきたいと思います。ほとんど解説している書籍がないにも関わらず、行動経済学を理解する上でとても重要な考え方になります。
経済思想が絡むため難しいテーマですが、これを理解することで上部だけの行動経済学の理解から、本質を捉えた理解になると思います。

僕は一橋大学大学院の経済学研究科で行動経済学について研究していました。経済学の面白さ、社会での有用性を広げるため、当ブログを開設しました。
このブログ(Economix)では経済学と大好きなガジェットを中心に情報発信しています。

そもそも行動経済学とは

まず初めに、行動経済学とは何であるのかを見ていきましょう。行動経済学は従来の伝統的経済学に心理学や人文科学など多分野の知見を盛り込みより人間的な経済学を意味します。
伝統的経済学では「経済人」という仮定がおかれており、これまで「全ての人は利己的かつ合理的に自分の利益を最大にする」と考えられてきました。しかし、研究を重ねるにつれ「実際の人間というものは全然合理的ではないぞ」ということがわかってきました。これは経済学は人間の行動の本質を捉えられていないということで、経済学の目指す「個人や社会の経済活動を捉える」ことから乖離が起きているのではないかという問題が見出されたわけです。

そこで、「人間は合理的ではなく、そこまで利己的ではないことを認めて、より人間に寄り添った経済行動を把握しよう」という目的で行動経済学が見出されることとなりました。

ナッジとは

行動経済学の発展の中で、人々の行動を捉えるため様々な実験が行われます。そうすると、人間の行動には勿体無い部分が色々あって、損しているのではないか?という疑問が湧き上がってきました。その勿体無い部分を是正できればみんなより幸せになるわけで、何とかできないかという議論が出てくるのは至極真っ当なことです。

こうした議論の中から出てきたのが「ナッジ」という考えです。ナッジとは「(注意を引くため肘で)軽く突くこと」という意味を持つ単語で、そこから転じて行動経済学の世界では「人々が自分自身にとってより良い選択を自発的に取れるように手助けする政策手法」とされています。つまり、何かきっかけを与えて良い選択をしやすくしてあげよう、という考えです。

しかし、このナッジが経済学の世界で受け入れられるのは容易なことではありませんでした。何なら今でも一部の伝統的経済学の視点では受け入れられていないとも言えるでしょう。それはなぜかと言うと、今回のテーマとも大きく関係する「リバタリアニズム」という思想と「パターナリズム」という思想が経済学界には存在したためです。

リバタリアニズムとは

それではリバタリアニズムとは何なのか、それをここから見ていきましょう。

リバタリアニズムを日本語にすると「自由主義」となるのですが、これはみなさんが想像する「リベラリズム」とは大きく異なるものである、ということをまずにお話します。リベラリズムとは誤解を恐れず端的にいうと「みんな自由で平等な社会にしよう」という思想です。そのため、平等にするためには政府などがしっかりと働いて調整する必要があるんだ!と考えているわけです。

しかし、同じ「自由主義」といえどリバタリアニズムは真逆の意味を有しているのです。自由主義なので「みんな自由な社会にしよう」というのは一緒です。ただ、「平等にしよう」という部分はなく、逆に「政府は関わるな!」「みんな自由にして競争を盛り立てろ!」って感じです。もちろん政府は関わるなといえども、ここでいう自由とは個人の行動が制限されないという「消極的自由」とも表される自由です。そのため、ある程度の政府の介入は認められるともいえるのですが、どの程度許すのか、というのが問題となってくるわけです。これについて語り始めると経済思想の分野に入っていくのでこの辺りで止めましょう。

まとめると、リバタリアニズムとは端的にいうと「政府などの介入によって自由が制限されない経済社会にしよう」という考え方です。そして、「リバタリアニズム」を是とする経済学者を「リバタリアン」といいます。リバタリアンの視点で見ると、ナッジの「影響を与える」という考え方は政府の介入となるので、当然反発が出てきてしまうわけです。この点については後で見ていきましょう。

パターナリズムとは

では、もう1つの経済思想「パターナリズム」とは何なのでしょうか?パターナリズムを日本語に訳すと「父権主義」となります。父権とあるように、父親のように近くで見守り、危険があればその行動を制限する、といった考え方です。最近ではジェンダーの観点から「パレンタリズム」や「親権主義」とも呼ばれています。

では、ここでいう「危険」とは何なのでしょうか?こうした場面では「自分自身の行動によって自分に悪影響が出てしまう」という意味で用いられています。これは経済学の例ではありませんが、医療をみてみましょう。インフォームドコンセントが広がる前の、従来の医療現場では医師の判断がある程度絶対的なものとみなされており、患者の意思を伺わず医療行為が行われていました。これは、疾病への判断を自分で行うことで治療できないという悪影響を、パターナリスティックな側面から防ぐためのものでした。つまり、パターナリズムにおいて、ある行為が「制限」されたり「押しつけ」られたりするわけです。インフォームドコンセントについても、「自分で判断する」という行為を「押しつけて」いるのである意味パターナリスティックであるともいえるようですが、、、。この点も経済思想の世界にどっぷり浸かっていくことになるのでこの辺で止めておきましょう。

まとめると、「パターナリズム」とは「(自らの行為によって)危険に陥るのを防ぐため、行為を制限したり強制する必要がある」という経済思想になります。

リバタリアン・パターナリズムとは

経済学において、先に見たように是とされている人間像は「経済人」です。しかし、現実の人間は限定合理性などがあり、経済人とは程遠い存在です。そのため、打ち立てられる政策や理論とは経済学的な合理性に依拠したものであり、パターナリズムの入り込む余地のないものとなっていました。みんな正確で「損しない=危険がない」のであればパターナリズムなんて不要ですからね。

しかし、行動経済学によって人間には限界合理性があるということが明らかにされてきたわけです。そうすると、もちろん政策などにもパターナリスティックな考えが必要なんじゃないのか?となるわけです。今まで危険がないと思っていたけれど、人が損している可能性があるならそれを防ぐのが政府の役割の1つですからね。
だからといって「これは危険だから禁止です」とか「絶対にこうしてください」とか完全にパターナリスティックな政策を推し進めて良いのでしょうか?ここで思い出してほしいのは「リバタリアニズム」です。この思想の中では「個人の行動は制限してはいけない」とされているわけです。今パターナリズムがしようとしていることと真っ向から対立しています。

そこで生まれた考えが「リバタリアン・パターナリズム」です。危険がある場合は、パターナリズムの立場からそれを是正しようと制度を発する。しかし、それは決して個人の行動を制限してはならず、実施の有無は個人の自由に委ねられるべきだという考えが根底にあります。それによって、リバタリアニズムの求める自由は維持されつつも、人々の厚生を高めることを期待しています。そして、この考えを根底に持ち、実現する手法がナッジというわけです。

まとめ

ここまでリバタリアン・パターナリズムの起こりを見てきました。「リバタリアニズム」は「自由が制限されない経済社会にしよう」という思想で、「パターナリズム」は「(自らの行為によって)危険に陥るのを防ぐため、行為を制限したり強制する必要がある」という思想です。そして、経済人の仮定からの乖離の露呈によってリバタリアン・パターナリズムが提起されます。リバタリアン・パターナリズムは「リバタリアンの立場に立ちつつ、人々の厚生の損失を減らすため強制的でないパターナリスティックな手法」を指します。そして、その手法からのオプトアウトの可能性を許容しつつ、良い方向へのきっかけを与える手法としてナッジが生み出されたわけです。

昨今、行動経済学の中で最も注目を集めているナッジの根底にはこの思想が鎮座しているわけです。行動経済学の本などではなかなか議論されないテーマですが、このことを知っているだけで見えるものも変わってくるはずです。また、行動経済学やナッジについて考える際は、一度この考えに立ち返る、それで整理されてくる部分も多いはずです。
難しいテーマになってしまいましたが、ぜひ覚えておいてもらえると役に立つことがあると思います。

リバタリアン・パターナリズムについては下記の本でかなり詳しく解説されているので、こちらもご参考ください!

その他行動経済学に関する本はこちらから!

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